福津郷土史会11月例会記録

令和6年11月7日(木)

於:視聴覚室13:30~

1 会長あいさつ

2 今後の予定及びお知らせ

(1)バス研修について(最終出席者確認)⇒カメリアに集合、車は旧西鉄敷へ、8:40集発、名札着用

(2) 例会外活動について(在自地区探訪)

・12月例会時に事前説明、現地探訪は2回実施⇒第1回探訪(12/18)車両(小川・田中・北原・松永)

(3) 髙木慎太郎氏(文化財課)による講習会について

・内容「福津市内及び周辺の古墳」について(1月or2月に開催予定)⇒日程調整は事務局一任

(4) 郷土史会所有写真の整理について

・委員(堀・大賀・阿部・有吉・松尾)事務局(小川・立山)⇒第1回12/11中央公民館13:30~堀・大賀は小川が送迎

・第1回整理員会の開催(12月 日13:30~ 場所 )

(5) カメリア改修に伴う例会会場等について⇒3月から会場(中央公民館)時間13:00~16:00

(6) 次年度体制について⇒清滝水路及び文化協会は小川が担当、他の役員や担当は4月総会で決定

・令和7年度の郷育「絵馬」「清瀧水路」「文化協会」の担当者及び役員

(7) 講習会「二人の女性天皇と額田姫王」の開催について⇒12/13視聴覚室13:00~

(8) その他⇒①郷育(絵馬)の受講者の声は別添御礼状のとおり、

      ②11/18古墳公園菜の花の種蒔き13:30カメリア集合

 

3 令和5年度文化祭について

・来場者の人数・質問・声⇒来場者は3日間で昨年より多い211名

・自分の卒業校や子供の学校がテーマであったため、関心が高く高評価であった。

 令和7年度のテーマについては会場が異なることに留意して各自考えておくこと。

 

4 調査研究

(1)特別展「筑紫君一族史」記念講演報告

5世紀後半の倭は王権成立前の連合政権の時代

雄略の没後⇒混乱⇒仁賢の娘(手白髪命)を皇后にする条件で王統とは全く関係ない

近江豪族の継体が即位⇒反対勢力有王統自体が未確立なので王統に連なっていないことが

即位できない理由にはならない。

継体は自分や子供にも仁賢の娘を妻にしている⇒450年生~534年没は妥当

継体は国造制を施行(統治範囲の設定)⇒勢力が錯綜する畿内での権力掌握の手段

磐井の乱⇒磐井が中央に出仕・新羅との友好関係・勢力が火国や豊国に及ぶ等は真実味がある

乱後に磐井の勢力範囲を対象に境界を定め国造制が施行

葛子が外交拠点の糟屋屯倉を献上⇒中央による外交一元化

乱後も筑紫君一族は筑紫国造として勢力維持

【君】地域の有力豪族・祭祀的性格の氏、【臣】王家と共に倭の連合政権を構成していた氏、【連】王権に従属した職名の氏

 

(2) 清瀧仕掛水(その2)極仕法書上帳についての検討

・下西郷村と薦野村は、水路を細分化して溝幅や補償弁米糧などを取り決めた

「極仕法書上帳」を交わしている。

 

【弁米単価の差】土地の生産力評価(石盛)によるもの

 

【溝幅の差】①既存水路の片側を拡張、②平地に新たな水路、③一方が斜面の場所に水路、④水路の傾斜度を保つため深く掘る必要がある・・・これらの原因で溝幅に差が生じている。

 

【水路長が実際より短い】①歩測による誤差、②馬場谷池と柳井上池が異なる、③百の漢字の読み間違い、④六の字の書き漏れ・・・これらの4通りから検討したが本当の原因は不明

 

【清滝水路が百田池まで延伸した時期】平原・竹尾・百田・引田池の築立時期や明治40年、44年、昭和14年、36年の文書を検討した結果⇒明治44年(1911)から昭和14年(1939)の間に延伸された可能性が高い。