津屋崎探訪(NO.5)岡の2区、岡の3 

                               福津郷土史会 2023.6.12

「岡の2区」 (津屋崎3丁目)

*江戸時代末期、福岡藩政時代は浦と村に分かれていた。「岡」は村で勝浦触に属していた。

 戦前まではクミを表すのに小字で呼んでいたが、昭和30年(1955)勝浦村と津屋崎町の合併に

より、天神町・岡の2・岡の3となり現在に至る。

*岡の2区の小字名…裏町、新屋敷、倉屋敷、出口(でぐち)(町)、宮の元、新海(しんかい)()壱作(いっさく)門前(もんぜん)(町)。

 岡の3区の小字名…沖町、土居。     天神町は天神町。

              

大師堂 (裏町)宗像四国西部22番霊場

   本尊 薬師如来。昔、大火事が起こったが、裏町はお大師様を祀っていたから類焼を免れた

   といわれ、()くしてはならないと大切に裏町の住民で守っている。

世話1か月交代。花、ロウソク、線香代は賽銭から賄う。20日に集まりお経をあげお茶飲

みをする。

 

庚申碑「庚申尊天」 (裏町大師堂横)  天明5年(1785) 1基。

 

庚申塔 (新屋敷)   1

   「庚申塔」      文化15年(1818) 

   新屋敷…明和5年(1768)津屋崎で大火災があり、岡分43軒、浦分179軒、その他隠宅、

納屋を加えると450軒余り焼失。区画整理で町名の変更があった処もある。

新屋敷は、役所の許可を得て、火事で焼け出された人達が住みついたという。

 

伝・黒田養心公宅跡 (倉屋敷)

・黒田修理(すけ)利則(としのり)(永禄4年(1561)~慶長17年(1612)没。文禄元年(1592)から養心)

 黒田(もと)(たか)の三男、黒田(よし)(たか)((じょ)(すい)・慶長9年(1604)没の弟で、長政の叔父。12千石

黒田二十四騎・黒田八虎のひとり。

(黒田八()とは、黒田二十四騎の中から親族の弟達や譜代重臣をいう。孝高が当主を務めて

いた時から活躍している。

・福岡藩第一代藩主黒田長政に、豊前から筑前国への転封が言い渡され慶長5128日(1600)に

 長政の名代(みょうだい)として修理(すけ)利則(としのり)7人が、小早川秀秋から名島城を受け取った。

・養心は、如水公が亡くなる慶長9年迄津屋崎に住む。津屋崎は宗像と共に如水の隠居料で

もあり、軍事的にも重要なところであった。養心が津屋崎に住んだのは4年から5年か 。

津屋崎町史通史460ページに「如水公への年貢の塩、田畠の収穫の皆済状」あり。

・如水死去の5か月後、長政の命により現在の那珂川市(いち)ノ瀬に移り、国境付近の肥前街道

 を警護した。市ノ瀬に墓がある。

・養心の系譜は妻の間嶋家に引き継がれ、福岡市中央区天神西鉄グランドホテルの場所に屋敷

があった。

・慶長8年、如水の妻(てる)が手光の長谷寺(ちょうこくじ)に観音堂を造営、養心が奉納した棟札があるという。

 

*文献「筑前国続風土記附録」 加藤一純編集 寛政年間(1789から1800)に完成

「村内にトノヤシキといへる所あり 黒田修理尚之(尚之は間違い。利則か?)しばら

く住居の所なりといふ 今其所に貢倉(こうくら)あり」

 

*文献「筑前国続風土記拾遺」 青柳種信・文化11年(1814

「村内に殿屋敷といふ所有 昔黒田養心翁此所しはらく住居せられし宅跡也 今収納

倉の之有を云」 

 

*文献「福岡県地理全誌」 明治5年(1872

「村中ニ殿屋敷トイフ所アリ。黒田如水ノ弟養心入道 暫ク此ニ住セラレシ宅址あり。

故ニ此名アリ」

   ・角にある大久保宅を「トノクラ」と言っていた。(大久保宅の隣りでの聞き書きより)

 

屋号・麦野惣兵衛邸 (門前→倉屋敷) 

・明治40年(1907)麦野時雄氏が在自の持ち山の木を塩木にし、漆喰の外装。防火の卯建。

・平成7年(1995)、旧津屋崎町の都市計画道路建設のため、門前(もんぜん)(地名)にあった家を他所

で新築するか、移転保存を迫られ、家を曳いて90度向きを変え現在地に保存された。

時雄氏は、昭和22年(1947)から26年迄、津屋崎町12代町長を務め、西鉄宮地岳線の宮

地嶽駅から津屋崎駅迄の延長、県立水産高校の誘致に尽力された。

 

津屋崎小学校跡(裏町・倉屋敷)

    明治6年、岡部・浜部の2か所に民家を借り小学校に代用。

明治14年(18816月、裏町に後者の一棟を建築し、岡・浜部を合併。

明治20年(188711月、倉屋敷後者の後に尋常小学校を新築。

明治29年(18964月、高等小学校部分教場を併設。

明治30年(18966月、校舎を裏町に新築し、宗像第2高等小学校と改称。

明治35年(19024月、津屋崎高等小学校と改称。

明治42年(19094月、高等小学校は自然消滅し、津屋崎尋常小学校に高等科併置し津屋崎

     尋常高等小学校と改称。

   大正15年(19124月、須多田分教場を廃止して本校に収容し、11校となる。

   昭和2年 (1927)蔵屋敷にあった小学校が現在地(津屋崎841・西の(あと))に新築移転。

        大正2年建立の「今林正介先生(しょう)(とく)碑」もこの年津屋崎小学校北側に移された。

        今林家は江戸時代福間浦の庄屋・大庄屋をした。正介は明治31年から石碑建立

        時津屋崎高等小学校訓導兼校長。(訓導…旧制小学校の正規の教員の称)

 

海雲山善福寺 又の名 垣の内観音堂 (出口)

筑前国中33ヶ所霊場西国16番札所。宗像四国西部霊場23番札所

本尊は馬頭観世音(秘仏)。開山は(えん)通大応(つうだいおう)国師。本山は博多千代町 (そう)福寺(ふくじ)

・本山崇福寺の初めは、鎌倉時代の(にん)()元年(1240)年、太宰府(よこ)(だけ)に建立したが、天正14

1586)薩摩軍と大友軍との岩屋城の戦いで焼失するも再建された。

 

天和(てんな)年中(16151623)の縁起に、天暦(てんりゃく)年中(947957)宮司の善福にあった観音堂が炎上

 して仏像が飛び去り 東1町ほどの栴檀(せんだん)の木に留まった。神のお告げを漁夫に託して言うに

は「穢れた土地を焼き払いきれいなこの土地に来たのでこの地にお寺を建てられよ。その黄

金は観音が止まっている木の下にある」。 神のお告げのままに黄金を掘り出し 改めて寺

を建て善福寺と号した。

氏政が疫病を罹っている民を助けんとて詣で祈ったので 郡中諸氏は疫病を免れた 

宮地村津屋崎村に寺領があったという。寛永年中(16241643)異賊切支丹が徘徊し寺や宝

物が失われ それ以後堂だけが残りひっそりとなった。天和3年(1683)春に氏子達が小堂

を再興したと無量寿院元海(在自村)が記す。本尊は秘仏。本山は崇福寺で湊浦の隣船寺の

配下なり。開山円通大応国師大和尚(だいおしょう) 長政公の位牌あり。今無旦寺なり。1間5尺平2間

 境内横 35間入30間と「宗像分限帳」に書かれていると「太宰管内志伊藤(つね)(たり) 天保12

年(1841)」に記されている。 

横岳の再建された崇福寺は、黒田長政により博多千代町に再建され黒田家の菩提寺となった。  

・福岡藩初代藩主黒田長政は、徳川家光の3代将軍就任の祝いで京都の報恩(ほうおん)寺に滞在中病状が

悪化し、元和(げんな)9年(162356歳で亡くなった。

(長政滞在時の報恩寺は御所の北東にあったが享保の大火で上京区の現在地に移転、如水公

と長政公の位牌が報恩寺にある。)

「筑前国続風土記拾遺」によると、御遺骸を乗せた船が博多に帰る途中、津屋崎付近で強風

にあい津屋崎浦に泊った。御遺骸の四方に垣根を巡らせ警護した人達は、「垣内」という姓

をいただいたという。その子孫が津屋崎に今も住む。別名「垣の内観音堂」ともいう。

次の日 陸路(そう)福寺(ふくじ)(臨済宗 博多区千代町)へ送り奉った。

その後 観音堂を建てお位牌(興雲院殿古心道卜大居士)を安置したという。

黒田家譜には、箱崎の松原の東の際にて火葬の儀式をした。荼毘(だび)の時鷹師がオオタカ(白鷹)

を放ったら、()古屋(こや)の中に飛び込んで焼け死んだと記されている。

   昭和25年(1950425日崇福寺の長政の墓所発掘があったが土葬だった。(西日本新聞)

   平成26年(2014)、黒田家墓所は福岡市に寄贈移管となった。

・観音堂には、長政の位牌より大きい善福寺開山の「円通大応国師」の位牌が右側に並ぶ。

・宮地村津屋崎村に寺領があったという。寛永年中(16241643)異賊切支丹が徘徊し寺や

 宝物を破壊したという。

  ・六角堂の本堂は、波折神社の南にあった吉田醤油屋の吉田作次郎が大正時代遭難に遭ったが 

   日頃此処の観音様を信仰していたので助かったとして、お礼に大正14年(1925)六角本堂

を建立した。それを記した石碑が本堂右側にある。

・昭和20年以前は、神湊燐船寺の管轄だったが、現在は国の方針で教安寺の管轄。

4月下旬頃、紫・白・ピンク色の3色の藤の花が見事。

  

*文献「筑前国続風土記附録」

「善福寺デグチマチ 禅宗 仏堂二間四方 海雲山と号す

  禅宗臨済派神湊隣船寺に属す 開基の年暦傳ふる事なし」

 

*文献「筑前国続風土記拾遺」

「善福寺 海雲山と号す」。同拾遺の「教安寺垣内観音堂」の項に「この堂に興雲院

 

殿の神位あり 高 元和9年(1623)京都(死去の尊敬語)したまい霊柩を

載奉りし舩此浦に泊れり 時に風波強かりしかは 此地に霊柩を揚て 四方に垣を(むすび)て守護し奉り 翌日陸地より崇福寺へ送り奉りけるとかや 依って此所を今も垣の内という 其後観音堂を建て尊碑を安置せしといふ 修験者護国院これを守る」

 

   *文献「地理全誌」明治5年(1872

殿屋敷の北にあり 巨刹なりしという 三笠郡横岳崇福寺に属す 

観音堂があって 馬頭観音は長さ16寸 西国16番札所 

 

   *資料「津屋崎公民館報」昭和52年(19771月号、昭和52315日 川崎朝雄

     善福寺に寺領田として5反を附せられていることは 天正13年(1585)の「宗像諸士

     分限帳」記されている。現にこの田は土居の元・林医院(東古小路)の横にあるとの事

である。しかしこの田は第2次世界大戦後 国の方針によって政府に買収された。

 

   伊藤(つね)(たり)

     鞍手郡古門(ふるもん)古物(ふるもの)神社の神主で国学者。青柳種信に入門し「太宰管内志」を編纂。

その凡例では「神社仏閣の事 慶長(15961614)以前の書に見えざるも 世の人の

口碑(こうひ)に残りてその名高きは別に引出て一件とせり」とある。

常足の住いは 中筋往還(赤間―猿田峠―新延(にのぶ)―植木―木屋瀬)が通り 黒田家の別邸があった((そこ)井野(いの))。常足は近郷に学問を教えに行ったが その一人に上底井野(中間市)の両替商小田(いえ)子がいた。宅子は女友達とお伊勢参りや善光寺にも出かけ「東路(あづまじ)日記」を書いた。田辺聖子が「姥盛り花の旅笠」の名前で出版。宅子の子孫が 高倉健。

 

氏政 

   氏政は宗像大宮司家には 該当者なし。氏正であれば2名。

51代、弘安元年(1278)~正応3年(1290)。

    第67代、文安3年(1446)~長禄3年(1459)宗像大社に隣接する興聖寺の大宮司を

   継ぎ朝鮮と通交す。

(うじ)(のり)は 足利尊氏と共に多々良川で菊池氏と戦った。尊氏は勝利して京都に引き返し

室町幕府をつくった。氏政を長政とする説もある。そうであれば敬って「公」を付ける

と思う。

 

崇福寺 

    (おう)岳山(がくざん)崇福寺。鎌倉時代(にん)()元年(1240)、太宰府(よこ)(だけ)建立(こんりゅう)。円通大応国師が開山。

天正14年(1586)薩摩軍が大友軍の岩屋城(四王寺山の中腹)を攻略(こうりゃく)した時その真

下にあった寺は殆ど焼け失せた。黒田長政により福岡市千代に再建され黒田家の墓所

になっている。太宰府の崇福寺は別院(本寺に準ずるもの)になっている。

 

    *庚申塔 (善福寺境内)

      「庚申(土中)」 宝暦44月(1754

 

日切地蔵と墓地改装記念碑 (出口)

  ・碑文から、宮地岳西の大力谷にあった善福寺がいつの頃からか出口に移され(天和年中の

    善福寺縁起参照)檀徒28戸の墓所としたのが「観音堂墓地」の起こりといい、津屋崎最

古の墓所といわれている。

これらの事から、古くは大力谷辺りに住んでいた人達が津屋崎に住みついたと推測される。

黒田長政公から田畠5反歩の寄進があったという。

記念碑の如水公は、長政公の誤りと思われる。

昭和32年(1957)頃、津屋崎町が都市計画法で玄海国定公園地域になり環境衛生刷新、

地方文化向上の施策に応じ、土葬であった墓地を教安寺詠唱会の発起で改装が行われた。

引き取り手が判った遺骨はトタンの上で焼いて各自引き取ったが、無縁仏は大きな甕3個

に入れ地蔵尊の下に入れて供養している。日切地蔵尊の後ろに六地蔵がある。

お堂の石垣には、江戸時代の年号が刻まれた改装前の墓石も使われている。

   

 ・「墓地改装記念碑」 (出口) (日切地蔵尊の左)

     碑文…往古宮地岳西麓ノ大力谷ニアッタ禅寺海運山善福寺ガ イツノ頃ニカ津屋崎部

落ノ出口ニ移転サレテ 檀徒二十八戸ノ墓所ヲ修シタノガ 観音堂墓地ノ起リデアル

黒田長政公ガ筑前藩主トナリ コノ善福寺即チ出口観音堂ヲ祈願所ニ定メ寺領トシテ

田畑五反歩ヲ寄進サレタ因縁デ 本堂ハ如水公ノ位牌ガ安置サレテ今日ニ及ンデイル

善福寺檀徒衆ノ祖先ハ 神群宗像ノ地ニオイテ 最モ古キ民族トイワレ 今尚残ル

大力谷古墳ハ 当時ヲ偲ブ形見デアロウ 以上口伝

今般、津屋崎町ガ都市計画法ノ適用地乃至玄海国定公園地域ニ界シ 又環境衛生ノ

刷新等地方文化向上ノ行政施策ニ応エ 納骨シテ地蔵尊ノ台下ニ埋メ 地蔵尊像ヲ

モッテ祖霊ノ象徴トシ (ここ)ニ子孫親善共同シテ祭ルコトトナッタ 改築土地ハ光明

幼稚園敷地ニアテルノガ妥当デアロウトナッテイル  昭和三十三年十二月三十日

2023612  大賀康子 記  ©

 

 

「岡の3区」(津屋崎4丁目)

 

旧・糀屋 (伊藤邸) (沖町)

  江戸時代末期の建築で糀屋だった。津屋崎では塩の生産により醤油製造も盛んで糀屋が必要

だった。

   卯建と、商売繁盛の「恵比須」と開運出世の「大黒」の顔の鏝絵が東西にある。

 

麻生邸 (沖町)

   家人の話では、文久3年(1863)の銘の瓦があるという。

   昭和になって西側と北側に方形の平瓦を貼り、その目地を漆喰で蒲鉾形に盛り上げて塗った

   なまこ壁の蔵がある。

 

明治時代の津屋崎町役場  (土居)

  明治時代から昭和4年(1929)まで、土居に町役場があった。

 

塩問屋(しおといや) 旧・吉田家 (土居)

  津屋崎町史聞書き調査時、明治42年生まれの話者の祖父は、塩田作業と塩を売り歩いていた。

又、父の代には塩納屋にある塩俵の下部から出る苦汁(にがり)を取り、販売した。津屋崎では祝儀・不

祝儀には必ず自宅でも豆腐を作ったのでよく売れた。

明治38年((1905)、塩が専売となり「官営塩元売捌所(さばきしょ)」の看板を掲げた。

塩は、馬車曳が赤間、飯塚、田川へ販売に、帰路は馬車曳が荷台で居眠りしても馬が家まで戻

ったという。

塩の海上輸送は三社丸、蛭子丸などが博多へ、帰路は津屋崎に陸揚げして売れる荷を仕入れ、

乙藤商店(上本町)へ届けた。

明治44年(1911)から45年にかけて国策で津屋崎塩田廃止となった。

 

庚申塔1基 (土居)

  天明33造立(ぞうりゅう)1783)。「庚申尊天」

  勝浦からバスが通っていた時、バスが庚申塔をよく倒すので、青年達に手伝ってもらい道向こ

うに移したが、病気をしたり怪我をしたりと祟りがあったので、又、元の位置に戻した。

昭和51年頃、上西郷の人が来て「夢のお告げでこの庚申塔の下に御神体の丸い石があり、こ

の石が自分の所にある石と夫婦石なので一緒になりたいといっているので、大切にお祀りしま

すから」と言って持ち帰った。20㎝位の立派な石だった。

 

旧・大蔵省熊本塩務局津屋崎出張所 文書庫 (土居)

通称「塩倉庫」。明治38年(1905)、「塩専売法」によって作られた重要書類保管庫。

津屋崎・勝浦の製塩で一番古い文献・宗像神社所蔵文書「応安神事次第追補(永享9年(1437))」

に、「塩は、勝浦から十日に一度受け取り 神前に供えた」とある。

勝浦塩田は寛文6年(1666)、勝浦潟を塩田に仕立てるため、大石下と森山の麓を大土手で仕

切り、2年後に製塩を開始した。(寛文の大土手)。

津屋崎塩田は寛保元年(1741)、入海に千間土手を築き、同3讃州(さんしゅう)(香川県)出身の大社元(おおこそもと)(しち)が初めて塩を焼き、塩浜庄屋に任命された。教安寺に墓がある。藩の直営で「黒田家文書」によれば、寛政9年(1797)両塩田の生産量は65千石、85%が藩内、15%が他国で消費されたとある。この輸送には五十集(いさば)船(商船)が活躍した。その波止場の石垣は入海側から見る事が出来る。

島根県浜田市「清水屋」という船宿の「諸国御客船帳」に、塩売り、鉄買い等と記されている。

津屋崎の塩は途中で大型の廻船(千石船)に積み替えられ、青森でも売られたという。

明治時代になると紆余曲折を経て組合や会社が結成され、明治36年(1903)両塩田の生産高

4830石で、福岡県の製塩高の36%に当り、「博多の味は津屋崎の塩で持つ」とまでいわ

れた。販路は県内のみならず佐賀・長崎にも。味噌・醤油・漬物・塩魚用に良いと信用があった。

明治44年~45年にかけて津屋崎塩田は廃止された。

 

⑮弁財天社 (土居)

昔、平家の残党が広島・厳島神社の弁財天の分身として土居に建立したという。

縁結びの神様ともいわれている。       (つやざきチャレンジマップ・H7年発行)

(参考 厳島の弁財天は明治の神仏分離で、現在厳島の大願寺に祀られている。

   厳島神社の御祭神は宗像三女神。推古元年(593)創建。国家鎮護、交通安全、海上

   安全、商売繁盛など。)

塩田が出来た後、塩田の守り神として出来たそうで、塩田の方を向いている(北)という。

  土居の守り神。組長が責任をもち、近くの人が水やシバを替えている。

  大祭は新暦715日、この日は(のぼり)、旗、吹き流しを立て、神饌のお神酒、お頭付(おかしらつき)の赤い魚、

塩1Kg、昆布、スルメ、米、果物を三方にのせて供え、波折神社の神職が祝詞を上げる。

年の暮れには町内全員で掃除をし、組長宅で注連縄(しめなわ)を作り、餅一重ねを供える。

女性の腰の病に良いとして、お年寄りのお参りが多く、とてもご利益のある神様という。

費用は、お賽銭でまかなう。              

 

2023.6.12  大賀康子・記  ©